入り口の扉が開く音がした。
重たい木の扉が生み出す『ギィィーン』という独特な振動。2階にいても十分聞こえる。やがて、『トントントン』と階段を登る軽妙なリズムが聞こえたかと思うと、中村貴子が現れた。
「あれ? ねずみくん、ひとり?」
「うん。というか、いま夜中の1時だよ。誰かといる方が怖くない?」
「そうなんだけどさ。前を通りかかって見上げたらさ、二人くらいいる気がしたんだよね。女の勘」
「二人くらいいるかもしれない勘ってなに?」
「楽しそうにしてるなら混ざりたいじゃない。でも、ねずみくんだけでもいて良かった」
「誰もいない可能性だってあったわけだよ」
「誰もいないことはないよ。絶対に誰かはいる。私の勘」
中村貴子は夜の方が元気がいい。弁当屋のアルバイトをしている都合上、昼夜逆転生活とはいかないはずだ。果たして、彼女はどういうタイムサイクルで生きているのだろう。元芸能人だから、時間感覚が普通の人とは違うのだろうか。(僕も他人のことは言えないが)
「中村貴子さ。いちおう聞くけど」
「うん」
「あなたの勘によると、この時間に誰と誰がいる気配がしたの?」
「誰と誰? あぁ……ねずみくんと、、、、誰か」
「その誰かって、重要じゃない?」
「重要?」
「え、わかんない? 勘ってなんなの?」
「どういう意味よ」
「たとえばさ、僕と柏和くんだったらまだ良いよ。たぶんお酒飲みながら、夜中までダラダラと適当な話をしてる二人だから。そこに中村貴子が加わって、談笑する。オッケーだよね」
「最高の時間だね」
「じゃあ次。僕とツツジちゃんだったら?」
「ツツジちゃんは、こんな時間にネオソホールにいないでしょ」
「ま、そうなんだけど、わからないでしょ。きょうばかりは、ツツジちゃんと深刻な話をしていたかもしれないでしょ」
「深刻な話ねぇ……」
「たとえばね。あくまで、たとえばだけども、夜中1時に男女が二人でいる部屋に顔を出すのって危険じゃない?」
「おーおー、いやらしい話?」
「だから、たとえばの話」
「ヤダァ」
中村貴子は、両手を頬に押し当て、目を座らせて、マンガみたいな『ヤダァ』のポーズをした。それがなんだか可笑しかった。
と同時に、ステージ奥の小さな部屋の扉が少し開いているのに気がついた。閉め忘れていたようだ。
「とりあえずトイレ」
とりあえずビールみたいな物言いで、中村貴子はトイレに行った。
ネオソホールのトイレはステージの横。ステージに立つ者にとっても、観客にとっても、非常に不親切な場所にある。映画館で言うと、スクリーンの横にトイレが設けられているようなものだ。トイレに行くとすべての客の目にとまるし、ステージに立っている人も、変な気まずさを感じることになる。
中村貴子は、トイレに行く途中、ステージ奥の小さな部屋の方を見て、すっと立ち止まった。それはほんの1秒にも満たないほど短い時間で、次の瞬間にはトイレへ向かったはずだが、僕には彼女が立ち止まっていた時間がとても長く感じられた。
トイレの鍵が閉まる音を確認すると、そそくさとステージに行き、小さな部屋の扉を閉めた。
「気を遣ってはいるんだよ」
トイレから出てくるやいなや、中村貴子は告げた。
「入り口を開けた時、ギィィーンの鳴り方がいまいちだったのよ。音が轟いていない感じだったの。だから、一度扉を閉めて、改めて扉を開けてみた。2回目は、ものすごく心地いいギィィーンが鳴ってくれたんだよ」
彼女が何の話をしているのか理解するのに、数秒かかった。
「ねずみくんとツツジちゃんが、2階で人に見られたくないようなことをしていたとしても、ギィィーンが警告音になるでしょ。そんで、ゆっくりゆっくり。階段をミシッ、ミシッ、って上がっていけば、その時間が猶予時間になるじゃない。たとえ、裸だったとしても服を着たり、隠れたりする猶予時間」
僕には、軽妙にトントントンと階段を登ってきたように感じたのだが、そんなことより、ここはきっぱりと否定しておかなければならない。
「僕とツツジちゃんはそんなんじゃないから」
「たとえばの話でしょ? そっちが言い出したんじゃない。え、ほんとうにそうなの?」
「だから、違うって」
「ヤダァ」
(つづく)
※筆・ワカバヤシヒロアキ