Skip to content

【#3 架空ネオソホール日誌】 ゆりり



思わず踏みそうになった。
というのは嘘で、踏んだ。

確実に踏みつけた。

何を踏んだのかわからなかったが、踏んではいけないものを踏んだという感覚はあったので、すぐさま足をどけた。

スニーカーの跡がくっきりと付いてしまった。そして、ぐにゃりと曲がっている。

絵。

何度見ても、絵。

三度見くらいで、油絵だと認識できた。四度見したところで、中村貴子の絵だとわかった。

「ねぇー」

2階に届くよう、大きな声を出した。

「なんで階段に絵があるの? っていうか、ごめん。踏んだんだけど」

昼下がりのネオソホール。中村貴子がいるのはわかっている。きっとバーカウンターの椅子に腰掛けてぼーっとしているはずだ。

「いいよー」

いつものように間の抜けた声がした。
絵を踏まれておいて『いいよー』という返事は間違っているのではなかろうか。

ほかに絵がないか確かめながら慎重に階段を上り、短い廊下を進む。左手のカーテンを開けると、バーカウンターがある。

中村貴子はイーゼルを立てて絵を描いていた。椅子に座ってぼーっとしてはいなかった。

「あの絵、なに?」
「あんまり面白くなかったでしょ。だから置いといたの」

そういえばどんな絵だったか記憶がない。

「犬とキツネの目をたくさん描いてみたんだけど、なんかつまんなくてさ」

(そんな絵だったのか)

「だからって、階段に置かなくていいじゃない」
「踏んだんでしょ?音がしたもの」
「ごめん」
「だからいいってさ。踏んでほしくて置いといたから」
「え?」
「誰かが踏んでくれたら、それもまたアートでしょ。いい感じの足跡が、いい感じの風合いを出してくれるんだよ」

アートと言うのは便利な言葉であり、乱雑な言葉でもある。アートといえば全てが許され、包み込んでくれるのか。『ピカソより普通にラッセンが好き』という名言にいたく共感した僕からすると、奇人気取りのアートなアートが苦手だ。

「踏んだ時、ヤな気持ちになったでしょ。罪悪感も芽生えるじゃない。そういう気持ちを食らうことで、あの絵にいろんな念が込められると思うんだよね。いろんな人の微妙な気持ちを溜め込みたいんだ」

意味わかんないよ、中村貴子。

彼女は画家。絵を描いて、ネオソホールで個展を開くのが主な活動だ。絵が売れたことは無く、ふだんは弁当屋でアルバイトをしている。

許したつもりは無いのだが、僕がいない時に無断でネオソホールに入ってくる。

半年前、忘れ物をしたからカギを貸してほしいと言われ、一時的に貸しただけのつもりだったが、それ以来まだ返してもらっていない。

そんな中村貴子なので、アートなアートをするのも納得だ。(いや、納得してはいけないのだが)

「桃がさ、食べたくて」

目の前のキャンバスには大きな桃が描かれていた。柔らかい光に包まれた綺麗な桃色の桃だ。そして、桃にはふたつの瞳も描かれていた。ギョロっとした目玉がこっちを見ている。

ノースリーブの淡い青シャツ。すらっと伸びる腕は、中村貴子の繊細な心の内を表しているようだ。

「あさ、バイトだったんだよ。そしたら、遠くから大きいカメラ持って私の写真撮ってる人がいてさ」
「あれ?レジはやらないんじゃなかったっけ?」
「きょう、人がいなくて、やってくれって言われて。久々に見たよ。ああいう人」
「写真だけ?」
「ま、わからないんだけどさ。何を撮っていたかなんて」
「だから、ここ来たんだ」
「そう、ちょっとね。ちょっと怖くなっちゃった」

あいている窓から風が入り込んでくる。通り抜けるふりをしてネオソホールの中に留まっているようだ。中村貴子の短い髪が行ったり来たりを繰り返して揺れている。

「中村貴子。温かいお茶でも飲む?」
「うん」
「わかった。お湯沸かすよ、中村貴子」
「ありがとね」
「いいよ、お茶くらい」
「ううん、中村貴子って呼んでくれて。ありがと」
「いいよ、中村貴子。それくらい」

彼女の本当の名前は、中村貴子ではない。
本名は、響ゆり。
世間的には『響鬼ゆりり』として知られている。

1年前。ライブのドタキャンが原因で騒がれたアイドル。響鬼ゆりり。そのまま失踪し、事務所から引退が発表された。

当時はテレビのワイドショーでも扱われたが、1ヶ月もしたら話題にものぼらなくなった。アメリカのワールドトレードセンターに飛行機が衝突するという大事件が起き、テレビはそれ一色になったからだ。

また、失踪した『ゆりり』に代わるように『杉浦あや』というニュースターが誕生し、世間を賑わしていた。世の中はすごい速さで動いていく。

その頃、僕は響鬼ゆりりに出会った。月が出ていない真夜中だった。ネオソホールの玄関の前で、彼女はただ、立っていたのだ。

行くあても無さそうだったので、しばらく『ゆりり』にはネオソホールを使わせてあげることにした。

さすがにずっと暮らしてもらうわけにもいかないと思い、不動産屋を紹介してマンションに住んでもらった。(鍵屋のネットワークで人助けができたのは初めてだった)

弁当屋でのアルバイトは、僕が勧めた。お金には困っていなさそうだったが、ずっと家にいるのは良くないと、本当に心配だった。

それに。

『響鬼ゆりり』の素顔はほとんど世間に知られてない。猟奇的な鬼をイメージしたメイクでステージに立っていたからだ。彼女のそれは『般若メイク』と言われ、真似をする若者もいた。メディアでは『可愛いカッコ怖い』という、謎の形容詞で彼女のことを褒め称えていたが、僕は『響鬼ゆりり』より、『響ゆり』。『響ゆり』より、中村貴子のほうが好きだ。

翌日、新聞を開いた。

老舗弁当屋を紹介する記事が、写真付きで小さく載っている。レジ前にいたのは、ただの中村貴子だった。


(つづく)

※筆・ワカバヤシヒロアキ