思わず踏みそうになった。
というのは嘘で、踏んだ。
確実に踏みつけた。
何を踏んだのかわからなかったが、
スニーカーの跡がくっきりと付いてしまった。そして、
絵。
何度見ても、絵。
三度見くらいで、油絵だと認識できた。四度見したところで、
「ねぇー」
2階に届くよう、大きな声を出した。
「なんで階段に絵があるの? っていうか、ごめん。踏んだんだけど」
昼下がりのネオソホール。中村貴子がいるのはわかっている。
「いいよー」
いつものように間の抜けた声がした。
絵を踏まれておいて『いいよー』という返事は間違っているのではなかろうか。
絵を踏まれておいて『いいよー』
ほかに絵がないか確かめながら慎重に階段を上り、短い廊下を進む。左手のカーテンを開けると、バーカウンターがある。
中村貴子はイーゼルを立てて絵を描いていた。椅子に座ってぼーっとしてはいなかった。
「あの絵、なに?」
「あんまり面白くなかったでしょ。だから置いといたの」
そういえばどんな絵だったか記憶がない。
「犬とキツネの目をたくさん描いてみたんだけど、なんかつまんなくてさ」
(そんな絵だったのか)
「だからって、階段に置かなくていいじゃない」
「踏んだんでしょ?音がしたもの」
「ごめん」
「だからいいってさ。踏んでほしくて置いといたから」
「え?」
「誰かが踏んでくれたら、それもまたアートでしょ。いい感じの足跡が、いい感じの風合いを出してくれるんだよ」
アートと言うのは便利な言葉であり、乱雑な言葉でもある。アートといえば全てが許され、包み込んでくれるのか。『
「踏んだ時、ヤな気持ちになったでしょ。
意味わかんないよ、中村貴子。
彼女は画家。絵を描いて、ネオソホールで個展を開くのが主な活動だ。絵が売れたことは無く、ふだんは弁当屋でアルバイトをしている。
許したつもりは無いのだが、僕がいない時に無断でネオソホールに入ってくる。
半年前、忘れ物をしたからカギを貸してほしいと言われ、
そんな中村貴子なので、アートなアートをするのも納得だ。(いや、納得してはいけないのだが)
「桃がさ、食べたくて」
目の前のキャンバスには大きな桃が描かれていた。柔らかい光に包まれた綺麗な桃色の桃だ。そして、桃にはふたつの瞳も描かれていた。ギョロっとした目玉がこっちを見ている。
ノースリーブの淡い青シャツ。すらっと伸びる腕は、中村貴子の繊細な心の内を表しているようだ。
「あさ、バイトだったんだよ。そしたら、遠くから大きいカメラ持って私の写真撮ってる人がいてさ」
「あれ?レジはやらないんじゃなかったっけ?」
「きょう、人がいなくて、やってくれって言われて。久々に見たよ。ああいう人」
「写真だけ?」
「ま、わからないんだけどさ。何を撮っていたかなんて」
「だから、ここ来たんだ」
「そう、ちょっとね。ちょっと怖くなっちゃった」
あいている窓から風が入り込んでくる。通り抜けるふりをしてネオソホールの中に留まっているようだ。中村貴子の短い髪が行ったり来たりを繰り返して揺れている。
「中村貴子。温かいお茶でも飲む?」
「うん」
「わかった。お湯沸かすよ、中村貴子」
「ありがとね」
「いいよ、お茶くらい」
「ううん、中村貴子って呼んでくれて。ありがと」
「いいよ、中村貴子。それくらい」
彼女の本当の名前は、中村貴子ではない。
本名は、響ゆり。
世間的には『響鬼ゆりり』として知られている。
1年前。ライブのドタキャンが原因で騒がれたアイドル。
当時はテレビのワイドショーでも扱われたが、
また、失踪した『ゆりり』に代わるように『杉浦あや』
その頃、僕は響鬼ゆりりに出会った。月が出ていない真夜中だった。ネオソホールの玄関の前で、彼女はただ、立っていたのだ。
行くあても無さそうだったので、しばらく『ゆりり』
さすがにずっと暮らしてもらうわけにもいかないと思い、不動産屋を紹介してマンションに住んでもらった。(鍵屋のネットワークで人助けができたのは初めてだった)
弁当屋でのアルバイトは、僕が勧めた。
それに。
『響鬼ゆりり』の素顔はほとんど世間に知られてない。
翌日、新聞を開いた。
老舗弁当屋を紹介する記事が、写真付きで小さく載っている。レジ前にいたのは、ただの中村貴子だった。
(つづく)
※筆・ワカバヤシヒロアキ