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【#1 架空ネオソホール日誌】 ネズミ



大量の保冷剤が必要だった。

「あすの最高気温は平年並みです」と、きのうのラジオで言っていたのに。この汗はなんだ。湿った髪が額にくっつく。

不快感が〝とてつもない〟。

暑さにへばりながら坂道を歩き、ネオソホールに着いた。

木造2階建て。入り口の扉を開けるとギーーィィと音が鳴り、ちょっと段差高めの階段が続いている。もちろん、階段をのぼるときも、ギシンミシンと音が鳴る。

2階がメインのフロア。5人組バンドが演奏したら、ちょっと窮屈だろうなというくらいのステージと、ぎりぎり50個くらいイスが置けそうな客席スペースがある。それらを見守るように、3人並べるくらいのバーカウンターが鎮座。この空間をまとめて『ネオソホール』と呼んでいる。


一刻も早く異常なほど重いリュックを下ろしたい。

がっ。

なによりも先に、由来辞典を手にとった。

「と、と、とてつ。途轍……」

『途』は『道』を意味し、『轍』は『わだち』を意味するらしい。 つまり、途轍とは『筋道』のこと。とてつもないという表現は、筋道から外れているという意味で使われていたそうだが、いつの間にか、『並外れた』という意味で使われることが多くなった。

……みたい。

「超どうでもいい」

心の声が、誰もいない、ひとりぼっちのネオソホールに響いた。いや、心の声ではなく、実際に口にしたのかもしれない。壁がふふふっと揺れたようにも感じた。もしや、笑ったのか?(そんなはずはない)


リュックから、20個もの保冷剤を取り出した。外気温が上がると、異常なほど室内が暑くなるのは、今に始まったことではない。窓を開けたり、扇風機を稼働させてもびくともしない暑さ。

そこで辿り着いたのが、『保冷剤でしのぐ』という荒技である。残念ながら、この方法は誰からも賛同を得られていない。おでこ、頬、首元、手首。考え得るところにぴたっとくっつけてごらんなさいよ。こんなに冷んやりするのに。


郵便受けに、電気料金のお知らせが届いていた。

宛名には、『ネオソホール・数守ねずみ様』と印字されている。カズモリは本名だが、ねずみはもちろん偽名である。芸名というわけでも、ペンネームでも、ニックネームでもなんでもない。

なんとなく。

ただの悪戯心で、おかしな名前を記入してみたのが2年前のこと。それ以降、毎月『ねずみ様』宛で郵便物が届く。不思議なものである。


ねずみ様がネオソホールに棲みついて2年が経つ。

それ以前、誰が棲みついていたのか、詳しいことはわからない。当時、大家さんがネオソホールの歴史を一生懸命話してくれたのだが、興味がなかったのでろくに聞いていなかったのだ。

だれそれのバンドグループが演奏したとか、有名な演出家が劇をやったとか。愉快な冗談を交えながら話してくれたが、そのほとんどがただの記号でしか無く、ちゃんと聞いていたとしても理解できなかったと思う。(がんばって、興味津々に聞いているフリをした)

僕には、ただ。自宅とは別にこの空間が必要だった。

大そうなことはしない。できない。でも、このネオソホールに身を置くことで、心が落ち着き、まるで社会と切り離された治外法権地区にいるような感覚になる。そういうスペースが欲しかったのだ。


ポタッ、ポタッ、。

床を見ると、汗が間違いなく滴り落ちている。
おい、保冷剤……。

さすがに今度ばかりは、壁が笑ったと思う。


(つづく)


※筆・ワカバヤシヒロアキ